| 西暦 | 年齢 | 出来事 |
| 1980.4.8 | 0歳 | 和歌山県田辺市に誕生する。 |
| 1983 | 3歳 | 保育園に通うことになるが、どうしても行きたくないとダダをこねて、結局やめてしまう。 |
| 1984 | 4歳 | おばあちゃんちの近くにある、別の保育園に入園。保育園では、毎日のように鉄棒と縄跳びをやっていた。その2つがかなり得意になる。 保育園から帰ると、おばあちゃんちの前にあるお菓子屋さんに100円もらってお菓子を買いに行くのが楽しみだった。 |
| 1986 | 6歳 | 小学校の遊具「メガネ橋」を調子に乗って、ポケットに手をつっこんでわたろうとしていたら足を滑らせ、落下。右足小指、骨折。ギプスをはめたままだと保育園に行くのが恥ずかしいのでまた行きたくないと駄々をこねる。 学芸会で、「ちびクロサンボ(これって今使ったら駄目やったっけ?)」の主人公を演じる。最近ビデオでみたけどよく台詞を覚えたもんだと自分に感心してしまう。 |
| 1987.4.8 | 7歳 | 地元の小学校に入学。知らない人ばっかりだったので緊張する。 6年生の人たちがよく世話をしてくれたので学校が少し楽しくなる。 サッカーを習いはじめるが、土曜に遊べないのが嫌ですぐにやめてしまう。 |
| 1988 | 8歳 | 小学校2年生にあがり、学級委員を務める。学級委員になると特別なバッチみたいなのがもらえて、それを名札に付けれるのが嬉しかった。そのためだけになったようなもの。 この頃書道を習い始める。でも、あんまり行きたくなかった。行っても適当に書いてはんこもらって終了。その繰り返し。 |
| 1989 | 9歳 | 小学校3年生。また学級委員をやる。担任の先生がギターが得意だったのでクラスの歌をつくってもらうことに。僕の作った寒い歌詞が採用される。あの歌残しておきたかった・・・ |
| 1990 | 10歳 | 水泳を習いはじめる。最初は順調だったが、バタフライがどうしてもできなかった。なんとかできるようになり、個人メドレーを始めるが、試験の時、クロールで溺れ、それがきっかけでやめてしまう。 そろばんも習いはじめる。これもあんまり行きたくなかったので、朝そろといって朝6時からそろばんをやって学校終わりは遊べるようにしていた。そろばんの先生もよく早起きしたものだ。 |
| 1991 | 11歳 | 書道は続けていたが、習いに行ってるにも関わらず、銅賞(一番下の賞)をとってしまう。それが原因でやめてしまう。そろばんもこのころやめてしまう。確か2級くらい(中途半端)暗算は準1級くらい(これも中途半端) このころ生徒会副会長を務める。特に仕事はなかったが、担当の先生があんまり好きじゃなかったので早くやめたかった。 1年の頃すぐやめてしまったサッカーを再び習い始める。今度は頑張ろうと思う。リフティングだけは得意だったので最初にそれをテストされ、うまいと勘違いされる。それで、いきなりレギュラーになる。他のメンバーからちょっと反感をかう。 学習塾も行き始める。やってることが難しかった。勉強をうちでもやっていたがわからないとすぐにすねていた |
| 1992 | 12歳 | 学習塾をやめる。とりあえず難しすぎました。というか、今思えば考えれんけど、確か実力テストの社会で地図の問題が出され中国と答えるところをアメリカと答える。ありえん。 クラスの女子とある事件をきっかけにもめる。この頃、男子と女子が対立してしまう。まあ、1ヶ月くらいで元通りになる。 このころ生徒会会長を務める。運動会であいさつをした時は緊張した。それと、全校集会のとき、歌の指揮もやったけど、あまりに指揮がおかしかったのか皆に笑われる。 サッカーは紀南代表に選ばれる。でも、県の代表選考で落ちる。ちょっと悔しかったけど、安心した。 陸上に専念するために、サッカーもやめる。結構頑張ったのでやめるときは泣いてしまった。 そして、3月小学校6年間を無事卒業する。 |
| 1993 | 13歳 | 地元公立中学校に入学。校舎は趣のある木造校舎。これが自慢らしいのだが、強い風が吹けば、窓ごと落ちてガラス全部割れるくらいのもろさ。しかも、教室の床に隙間も空いてて、下が見えるような状態。こんな学校で3年間やっていけるか不安になる。しかも、他の小学校の人たちと一緒になり、知らない人ばっかでやはり緊張する。 少し、仲良くなり始めると僕が公立の中学校に来ているのは、受験に失敗したからだとあらぬ噂が立てられる。僕は部活を頑張りたかったから、本当に受験してないのに、それを言うとなんかまた負け惜しみみたいに聞こえてしまう。それが悔しかったから最初の中間テストで頑張って勉強して学年1位をとる。さらに、部活を頑張るために公立にきたことを証明するために、県大会で1位をとる。 この頃塾に通い始める。個人塾で、予備校の自習室みたいなところで、学長と二人きりの授業。かなり苦痛。しかも塾長が時々するくしゃみがあまりにでかくてめっちゃびびる。 3学期の球技大会のバスケットでジャンプシュートを決めようとドリブルからとまる時に滑って転んで骨折。吐きそうになるくらい痛かった。右手だったので字を書く時に苦労した。その時は左手で書く字もかなりうまくなっていた。今はもう駄目やけど。 |
| 1994 | 14歳 | クラス替え。せっかく慣れてきたクラスだったのにちょっと残念に思う。1年の頃通っていた個人塾をやめる。あんまり意味がなかったような気がする。その後、小学校の頃通っていた学習塾に再び通い始める。 一応、私立受験を目指して入ったが、塾以外では勉強は全くしなかった。 クラスは班にわかれていたが、僕は班長で、班員を選ぶことができた。でも、これっていいことなんかな。その時はいつまでも選ばれない人がいたりして、僕がそんな立場だったら嫌やったからそういう人を班員に選んだ。でも、それが他の班員の反感をかう。班長って難しいのだと思い知る。っていうか、先生が決めるべきやと思ったりした。 |
| 1995 | 15歳 | 学習塾はずっと続けていたが勉強していなかったので成績は全く上がってなかった。それを心配した塾の先生が「お前が行こうとしてる私立の高校はこのままだったら受からん。一日3時間勉強しなさい」と僕に発破をかける。受からんって決め付けられたのが悔しかったから、その日から1日3時間勉強を始める。 最後の県大会の日。標準記録を突破すれば全国大会だった。県大会の予選ではいいタイムが出せていたので好調ならいけると思っていた。しかし、暑さと緊張のせいかタイムは全然駄目だった。かなりへこむ。その後、塾の講習があったので、陸上競技場をすぐに出発。陸上競技場が地元から遠かったので、電車で帰らなければならなかった。しかし、バスをのり間違え駅についたちょうどその時に電車が出てしまっていた。へこむ。さらに駅で買った紙コップのジュースが、紙コップが出てこず、ジュースが垂れ流し状態に。さらにへこむ。塾に行くと、実力テストの結果が返ってきていた。志望校C判定。家で父親にしかられもう踏んだり蹴ったり。その時、これまでこんなついてない日があっただろうかと初めて思う。 それにもめげず勉強は頑張った。なんとか成績が伸び始める。勉強に専念するため、部活は休み、個人的にトレーニングをすることにする。県駅伝は出場するが、前日に蕁麻疹が出て、記録はぼろぼろ。公立にきて全国大会に出るのが夢だったのに一度も出れないまま陸上を終えてしまうことにあまりに無念で涙がこぼれる。 もう勉強で頑張るしかないと思い、集中して勉強をする。しかし、すればするほど受かるか不安になってくる。このとき、中学校から私立に行っておけば良かったと後悔する。 それでも、頑張った甲斐あって合格する。本当に嬉しかった。 そして、無事に中学校を卒業する。 |
| 1996 | 16歳 | 私立高校(高校野球で全国的に有名な和歌山の高校)に入学。地元からだと遠いので学校の近くに家を借りて住む。この頃は父親は毎日こちらから高校まで通ってくれ、母親、じいちゃん、ばあちゃんが定期的に通ってくれ身の回りの世話をしてくれた。ほんまに助かった。勉強頑張らんとあかんと感じた。高校からの編入だったので、最初は編入で入った人だけのクラスになる。勿論初めての人ばかりだったので、友達が出来るか少し不安になる。すぐになじめたから良かった。 4月の終わりくらいに練成会というのがあった。宗教の学校だったから、2泊3日でお寺に泊り込み精神を鍛えなおす。かなりきつかった。般若心経を100回くらい繰り返して読む。その間ずっと正座で、足がしびれまくる。元々正座の苦手な僕にとってはまさに苦行。最後の方はさすがにお坊さんも疲れてきたのか、お経を読むスピードが半端じゃなかった。誰もついていけず。さすがやと思った瞬間でした。 この練成会で得た事は、とりあえず中等部の人たちとの差がめちゃめちゃあるということ。そこで、毎日勉強を頑張るようにした。ちょうど、この頃あることをきっかけに日本一と言われる大学を目指そうとする。それも重なって毎日結構勉強した。 このころ、めちゃモテにはまる。というより雛形あきこにはまる。ちょうど和歌山大学の学園祭に来るということで何か運命的なものを感じる。勿論見に行く。あの時の感動は今でも忘れへんわー。まあ、今はファンではないんやけど(^_^;)中学受験で勉強には慣れていたので、それほど苦痛ではなかった。そのおかげで、定期試験では成績は上位だった。 実力テストではいまいち。実力の無さを痛感する。 |
| 1997 | 17歳 | 高校2年生。中等部の人達とクラスが一緒になる。編入の人数は元々少ないので、クラスでの編入の割合の少なさにへこむ。あんまりクラスになじめていないまま修学旅行へ。韓国に行った。行きはフェリー。船で、2日過ごす。意味わからん。でも、この修学旅行のおかげで中等部の人達とかなり仲良くなれた。ホテルに泊まったとき、窓の外はベランダみたいになっており、そこを使えば他の部屋に行くことが出来た。修学旅行の定番といっていい先生の見回りで、担任に見つかってしまい、蹴られる。 その後初めての定期テスト。100人中85位。中等部のすごさを思い知る。やっぱ公立の中学校とはレベルが違うんやね(^_^;) それにもへこたれず勉強は頑張る。 文化祭の時期。この高校の文化祭は中学校の文化祭かと思わせるくらいしょぼい。でも、クラスで1つのことをやるということで割りとまとまる。 体育祭では、得意の陸上を活かして活躍する。でも、1500って注目度低いんよね。というより、野球部も参加するから皆そっちに注目。さすが全国レベルの野球部!!今でも応援してます。寄付はしてないけど・・・ |
| 1998 | 18歳 | ついに高3。大学受験を控えて勉強に励む。模試をいくつも受けたけど、ずっとE判定(志望校を再考しなさいレベル)それでも、受験する大学を変えようとは思わなかった。それくらい、東大を受けようと思ったきっかけが大きなものだったから。しかし、そんな強い思いにも関わらず成績は一向に伸びなかった。それでも、めげずに勉強する。 この頃、友人の紹介で塾に通う。寺子屋いけうち。「て、寺子屋!!」って時代錯誤な名前に驚きつつも通う。ここの先生がかなり面白い。数学と化学を習いに行ってたけど学校より全然わかりやすかった。まあ、成績は伸びんかったけど。でも、この塾で経験したことは大きかったと思う。あの時一緒に勉強した人達や先生元気にしてるんかなー・・・ 11月には防衛医大を受験。あっさり不合格。難しすぎるわ!! そして、センター試験。かなり緊張したけど、もし今年駄目でも来年頑張ろうって思ってたから割と落ち着いて受験できた。結果は610点。うーん、微妙。担任には志望大学は難しいと言われる。そんなこと耳に入ってなかったけどね。 私立も二つ受けた。関西の大学には合格することができた。かなり嬉しかった。その後、関東の大学も受験。試験が全然できんかった。あっさり不合格。志望大学の前に結果がわかったからなんとなく嫌な気分で受験に臨む。 あっさり撃沈。でも、1年頑張ればなんとかなるかもと根拠のない自信があった。この時の家はかなり暗いオーラを放っていたに違いない。そんな中後期試験。後期は関西の大学を受験。絶対受からないと思っていたから、ホテルに一緒に泊まった受験生と仲良くしゃべる。そのホテルには関西の大学の学生が受験生の世話をするために泊まっており、夜は部屋に遊びに行った。結構いろんな話がきけて楽しかった。そして、試験。撃沈。 東京の大学には行くと決めていたので、東京に暮らすことにする。その時、父が東京に一人で住むところを探しに行ってくれた。浪人生のためになんでそこまでしなければならないのかと父もへこんでいたようだ。 入試直前にサテラインで受けた代○木予備校の授業が良かったので代○木に行くことは決めていた。代○木は模試の成績が良いと授業料が安くなる制度があった。僕は模試の成績が悪く25%引きだった。これでは駄目だと思い、授業料免除の試験を受ける。結果は0%引き。「お前は全額払ってでも来い」って事らしいです(^_^;) |
| 1999 | 19歳 | 代○木予備校に入校する。 なんとか志望校理系クラスの上のクラスに入れた。皆頭よさそうな人ばっか。でも、皆落ちたんよね(^_^;) めっちゃでかい教室で、黒板の長さに驚きました。 講義は月〜金まで毎日あり、一度も休むことなく全部出席しました。なんせ、授業が面白かったので1時間半の講義も全然飽きませんでした。たまに眠くなったけど。この予備校には名物講師と呼ばれる講師達がたくさんいて、物理のT講師の講義はすごかったです。立ち見が出るほどの人気ぶり。教卓にはお供え物みたいなものがたまにおかれてました。一番面白かったのは数学のO講師。テキストにサインまでもらってしまいました。(もう捨ててしまったけど・・・) 予備校では友達ができました。その友達とは今でもたまに会っています。一緒に頑張った仲間です。 普段の生活はというと、東京で暮しを始めたけど、初めて東京に住むということもあり、ニュースなどで怖いというイメージしかなかったので、毎日予備校と家を往復するばかりだった。ほとんど出歩かず。 毎日、外食(ていっても、吉野家とか、中華料理屋屋とか)かコンビニ弁当。昼は予備校の食堂で食べてました。 そんな感じで毎日頑張っていたおかげか、成績も上がり始め、模試でも後3点でA判定とかいうくらいまで上がりました。まあ、たまにC判定とかもあったけど。でも確実に伸びてると実感できた。 毎日勉強ばっかやったけど、全然嫌じゃなかった。今から考えたらありえんくらい勉強してて、もう一度やれといわれてもできないかもしれんけど、目標があったから頑張れた。 でも、大晦日の日に受けた模試は最悪だった。物理が30点くらい。(100点中)さすがに全てを投げ出したくなった。この日は帰って現実逃避するために、弟が友達に借りてきたダンスダンスレボリューションをした(懐かしい)その時、壁の出っ張りに思いっきりかかとをぶつけ流血。めっちゃ痛くてさらにへこむ。 自暴自棄になりつつ元旦を迎える。足を引きずりながら明治神宮に参拝。おみくじをひいた。ここのおみくじは大吉とか書かれていなかったので内心ほっとする。 もう一度気合を入れなおし、勉強を頑張ろうと決心する。 そしてセンター試験。いつもの予備校で受けれたのでそんなに緊張しなかった。一緒の教室におじいさんもセンター試験を受けにきていて少し驚いた。そのおじいさんは時間が終わっても鉛筆をおかないでマークし続けていたので試験監督に注意されていた。「すいません。すいません。」と泣きそうになりながら謝っていた。20代の若者にあんなに必死に謝ってるおじいちゃんを見て少しブルーになりながら、なんとかセンター試験を終える。結果は683点。去年より確実に上がった。一年頑張った成果を実感する。社会を現代社会に変えたんやけど、それが50点くらいでめっちゃ足をひっぱてた。日本史のままにしとけばよかった・・。 センターが終わってからはほとんどうちにこもりっきりで勉強。ほんまに頑張った。御飯食べる時以外はほとんどテレビも見ず、一日中勉強って感じやった。 そして、私立の入試。 私立1校目の合格発表は国立の入試の2日前。この頃父が、東京に来てくれていた。合格発表の日、父は買い物に行ってくるといってでかけた。その1時間後くらいに、突然父から僕の合格の電話があった。父は僕が落ちていたら悪いから内緒で見に行っていたのだ。まあ、買い物に行くって出て行った時、僕はあー、たぶん合格発表を見にいったなとは思ってたけど。 でも、ほんま嬉しかった。去年は全然歯が立たなかったのに、ほんま一年やってきたことは無駄じゃなかったんやと感じた。 あの時、父が買ってきてくれたケーキの味は今でも忘れてない。つうか、コージーコーナーのやから今でもたまに食べるから忘れてないだけかもしれんけど・・・ そして、いよいよ志望校入試。去年よりはレベルアップしてると自信を持って挑む。1日目の数学はまあまあ出来た感じ。 そして、帰って眠る頃。ふとその日の数学のことを思い出す。完答したと思っていた問題の間違いに気付いてしまう。血の気が引いた。もうとても眠れんかった。涙がこぼれた。急に死んだおばあちゃんの顔が浮かんできた。走馬灯のように昔のことをいろいろ思い出してしまった。 もうわけわからん。どうしよう、どうしよう、どうしよう・・・寝た。 そして次の日。気持ちを切り替えて、挑む。理科は化学が割りと自信があった。まあまあの出来だった。なんとか試験を終える。ほんまに長い戦いでした。その後すぐに、電話してもう一つの私立の合格発表を聞く。合格してた。これもかなり喜んだ。この調子だと志望校も受かってるかもと明るい気分になった。ちなみにこの時も父は僕よりも先に合格発表を聞いていて、わざわざ受験地にまで来てそのことを知らせようとしてくれたみたいだった。さすがに校内には受験生しか入れないので追い返されたみたいやけど、そこまでしてくれるのがほんまに嬉しかった。こんな父親になりたいと思えた瞬間。 前期試験を終え、燃え尽きてしまった僕は後期の勉強はあまりしなかった。というか、落ち着かず出来なかった。[バトルロワイヤル」って本を買って読む。内容がダークすぎてなんかブルーになってしまう。このころ私立の入学金を振り込む最終日があった。僕はもし志望校がだめならもう一年勉強しようと考えていた。つうか、たぶん受かってると思ってた。だからお金を振り込む気は無かった。でも、この日実家から電話があり、お金ふりこむだけ振り込んどけば?みたいに言われた。その時は断ったけど、夜寝るときになって、考えてみた。来年僕一人浪人だったら、勉強できるんやろか。いろいろ考えた。そして、やっぱり振り込んでおくことにした。結果的にこれが良かったんやけど。 そして、合格発表の日。やたら天気のいい日だった。雲ひとつなかったような気がする。妹と二人で大学に向かう。実は合格発表を実際に見に行くのは初めてだった。 発表の時間までかなりどきどきした。めっちゃ人が多かった。そして発表。皆一斉に、掲示板に向かっていく。僕も急いで見に行った。僕の番号は・・・「ない!まじで!見落としてるに違いない。」もう一度自分の受験番号を見て確認。やっぱりない。時間が止まったようだった。その時妹に腕を引っ張られ、「あった!あった!受かったよ!!」って言われた。再び時間が動き出し、現実に引き戻される。とてもその場にいられるような状況じゃなかった。掲示板の裏に行き、泣いた。ほんまにつらかった。この時のつらさは今までにないものやった。それから5年くらい経つけどこれほどつらいと思ったことはまだない。神様なんていないと思った。 へこんだ気持ちのまま、後期の受験ができるか掲示板に見に行った。「あった!ここにはあった!」やりきれません。つうか実はこっちが合格者の掲示板だったりして・・・こんな小さい合格掲示板あるわけないか・・・ そのまま、後期の受験票を取りに行こうとする。その時、新入生を勧誘する大学生が僕に声をかけてきた。「合格おめでとう!」そのすぐ後、僕から出るあまりにも大きすぎる負のオーラに気付き、気まずそうにその場をさる大学生。もうちょっと空気読んでください。 後期の受験票をもらいにその列に並んだ。この列に並んでいる人は皆廃人に見えた。外では胴上げとかやってるのに・・・ 妹にはあんまり会いたくなかったが、一緒に帰る。帰りに何を思ったかドリームキャストを購入。なんで、こんな微妙なもん買ってしまったんやろ・・・まあ、それくらいわけわからんくなってました。 後期までの3日間くらいはほんまに地獄やった。妹はもう合格してるし、僕に気をつかってか家にはいなかった。一人でいるともう気が変になりそうやったから予備校に勉強に行った。すると友達も不合格で勉強に来ていた。お互いに傷を舐めあった。まあ、それでもだいぶ落ち着きました。 後期試験はおまけみたいに思ってたから、受かるとは思ってなかった。それでも試験自体は割りと出来た感じ。もしかしたらみたいな期待はあった。あっさり裏切られました。 ほんま大変な一年やったけど、かなり成長できました。 |
| 2000 | 20歳 | 入学式の前に弟のはしかがうつり寝込んでしまう。そのせいで入学式を欠席してしまう。この時は第一志望に落ちてしまったことがショックで入学式に出れなかったことはそれほどショックではなかった。にしても、はしかは昔かかっていたのでまさかもう一度はしかになるとは思っていなかった。結構きつかった。喉になんかできててつばを飲み込むのも気持ち悪い感じだった。 はしかもようやく治り大学に通い始める。ガイダンスに行ったその日に、大学に通いながら予備校に行く仮面浪人をしようと決める。そのまま、去年まで通っていた代○木に高3の時と同様授業料免除の試験を受けに行く。自転車で予備校まで飛ばしてなんとか試験時間に間に合った。去年は0%免除だったけど、今年は1年予備校で勉強したしレベルアップしてるはず!これで授業料免除100%免除でただで予備校いけるんやったら大学に通いながら受験勉強をしようと決めていた。そして、試験。自分ではこの1年の成果を発揮できた感じ。これは100%免除かも。と思いながら結果を待つ。そして1週間後。結果が届く。10%免除。えっ、これ0一個足りてないやん!あれだけできたはずやのに10%免除なだけ?ありえん!もういいわ。それで完全に志望大学は諦めました。でも、去年は0%やったからそれに比べたら確実に伸びたんやね(笑) そして、本格的に大学生活が始まる。僕は第二外国語にドイツ語を選択していた。(ほんまは中国語にしたかったんやけど、大学合格が決まってからすぐに第二外国語を決定しないといけなくて、最初は志望大しか考えていなかった僕は適当にドイツ語を選択してしまった)第二外国語を何にするかでクラスが振り分けられる。僕はタ組。「タ、タ組?」なんでクラスがアイウエオなん?他の大学の人に何組か言うのがほんま恥ずかしかった。必ず「えっ?タ組?」って聞かれた。 そのクラスの人には浪人している人も結構いて、あー結構皆浪人してるんやーってちょっと安心した。 そして、サークルの新歓コンパにいろいろ参加する。ほとんどただで飲ませてもらえるので良かった。いろいろサークルを回って、テニスサークルに入ることを決める。それまでに、いろいろ練習に参加したりもした。バスケ、サッカー、これは自分でも得意と思ってたんやけど、サークルやのに皆割りと本格的に練習していてちょっとついていけなくて諦める。そして、セパタクローの練習にも参加してみる。マリみたいなのを蹴るバレーみたいな競技。この時体育館シューズを忘れて素足でそのマリみたいなのを蹴ると、これが意外に固くて足がめっちゃ腫れる。何日間か歩くのがつらかった。それで諦める。(こうやって書いてみると僕諦めすぎやん!) 大学生活にも少しずつ慣れ始めたときに3ヶ月分の定期をなくしてしまう。(9000円くらい)かなりショックだった。これがきっかけでバイトを始めようと思う。いろいろ探して最初はコンビニでバイトしようとするが、どこも時間が合わず、他のバイトを探す。その頃、近所のカレー屋がバイトを募集していたので早速電話して面接してもらう。たいした面接はなくそのまま採用が決まる。初めてのバイトということで結構どきどきしていた。最初の研修のとき、店長と二人であいさつの練習などをした。この時に一番つらかったのが、店長に対して申し訳なさそうに謝る練習。お客さんに対して、何か失礼なことをしてしまった場合に備えて、謝る練習をさせられたんやけど、何もしてないのに申し訳なさそうに謝るのは結構きつかった。かなり恥ずかしい。僕:「申し訳ございません。」店長:「うーん、もうちょっと申し訳なさそうに!」僕:「申し訳ございません。」店長:「うん!今のはよかった!」えっ、さっきとの違い何? そんな感じでカレー屋でのバイトが始まる。僕は深夜勤務だった。平日ならお客さんは少ない時間帯やけど、僕は金曜と土曜の深夜にやっていて、飲んだ帰りにカレーを食べに来る人が結構いて(よくカレーなんか食べれるなー(^_^;))かなり忙しかった。深夜は客が少ないという設定なので仕事がいろいろある。店内の清掃、お金の勘定、トラックから運ばれてくる荷物を店内に運ぶ、その他いろいろ。しかも二人しか働いている人がおらず、ほとんど休憩もできないような状態だった。 でも、このバイトでしかできないような経験もいろいろできた。まず、一番驚いたのが食い逃げが結構いること。僕の働いていた店は最後にお金を払うという形だった。ある人は普通に「ごちそうさまー」と堂々とお金を払わずに出て行ってしまった。こっちもそこまで堂々されると気付かず「ありがとうございました。またお越しくださいませ」って言ってしまう。また来られたら困るやろ?ってその後自分に言い聞かせた。 後、やけどは日常茶飯事だった。一度ひどかったときは揚げ物の油の中にボールペンを落としてしまって、熱いと気付かずに思いっきり手を突っ込んでしまったとき。自分の手が揚げられるかと思った。 そんな僕がこのバイトをやめるきっかけとなった事件があった。ゆで卵事件だ。その日は、普段よりも一段とお客さんが多く、やらなければならない仕事が全然できなかった。やっとお客さんがいなくなり、これでようやく仕事が出来るってなったときにいきなり6人で来店。まあ、お客さんは全然悪くないんやけどね。それで、全員がゆで卵入りのカレーを頼んで、全員分のカレーを作り始める。最後のカレーを作っているときにやっと気付いた。ゆで卵一個足りん!かなり焦った。それをお客さんに伝えに行くと、一人がぶちきれる。「お前ら、バイトだったらどうしようもないから上のもんよべ!」めっちゃこわ!すぐにスーパーバイザーの人に電話するけど、深夜3時。今すぐこれるわけなんてない。そのことを伝えるとさらにそのお客さんはヒートアップ。もう手のつけようがありません。それでもカレーを食べていた。そして、帰り際。パニくっていた僕はお代はどうしましょうか?と聞いてしまう。じゃあ、お客さんは払わんでいいんか!とまた激怒。そういうわけには・・・。なんとか払ってもらう。これにて一件落着。と思いきや、その後スーパーバイザーがやってきてまた怒られる。接客が悪いとさんざん説教。その後、店長にも散々説教。「もうやめてもらってもいい!」じゃあ「辞めます」それで、僕のカレー屋でのバイトは終わった。ほんま良い経験になりました。 カレー屋のバイトを始めた頃に、今も通っている塾でのバイトも始めていた。高校の頃の友達の紹介で通うことになったが、初めて行ったときはそのぼろさ(そんなこと言ったら失礼やけど)に驚いた。こんなとこでやっていけるんかなって不安になっていたのに、経営者のおっちゃんに行ったその日から「じゃあ早速働いてもらおうか」みたいなこと言われてびっくりした。教え方とかなんもわからんのにいきなり高校生のいる部屋に入れられた。そしてすぐ化学の質問。いきなりわかりません。自分の力の無さを知った。で、その日から予備校の頃使ってた問題集とか使って再び勉強を始めた。最初はほんま女の子が怖かった。今でも尊敬するT先生が「女の子、特に中学生の女の子は怖いから気をつけた方がいいよ」といわれていたけど、まさにそうだった。僕は理系やったから社会があんま得意じゃなくて、中学生の女の子に社会の質問をされたときに「僕、社会苦手やから、K先生にきいてくれる?」って言ったんやけど、それが経営者のおばちゃんには曲がって伝わって「平野君、中学生の子が、平野君に質問したのに無視されたって言ってたわよ。ちゃんと教えてくれないと困るわよ」とその日からリストラの対象にされる。女の子って怖いわーって思った瞬間。だから最初は結構しんどかったなー。よくリストラ、リストラって言われたし。 そんな感じで大学1年生の頃は過ぎていきました。バイトは今でもそうやけどほんま良い経験になっています。 |
| 2001 | 21歳 | 大学2年生。この頃再び走り始めていた僕は友達の紹介で、大学の陸上同好会に入ることを決意する。ちょうどテニスのサークルを辞めることを決めていたので、そのことを先輩に言った。しかし、テニスのサークルの紹介の冊子に僕の携帯の電話番号が載せられていて(僕がサークルの代表みたいになってた)で、何人からか電話かかってきたりしたんやけど、僕はもうサークルを辞めたので他の人に電話してくださいとその度に断っていた。結局そのサークルはつぶれてしまったらしい・・・。なんかいろいろ問題があったみたい。その時の2年生が他大の女の子だけでなく、自分とこの大学の女の子もサークルに入れたいって言ったんやけど、他大の女の子達は絶対嫌って反対したらしくて・・・。それでちょっと分裂してしまい、結局解散という形になってしまいました。人数はそんなに多くは無かったけど、ちょっと悲しい出来事でした。辞めてしまった僕が言うのもなんやけど(^_^;) そして、陸上同好会に入る。2年生から入ったということもあり、かなり微妙な感じ。それでもなんとか慣れようとして、頑張って練習に参加する。大会にも出たし、飲み会にも結構行った。6月には野球の早慶戦(慶應では慶早戦というらしい)をサークルで見に行った。結局、当時早稲田のエース(今はソフトバンクの)和田に押さえ込まれ完敗。その後、飲み会に行って、日比谷公園に行く。伝統の行事として日比谷公園の噴水に飛び込むというのがある。それを阻止しようと応援団が噴水の周りを取り囲んでいる。それをくぐりぬけようとするがつかまってしまう。「どこのサークルですか?」「焼肉同好会です」つかまったらそう言えとサークルの人に言われていたので言われたままに言う。あきらかに応援団の人は疑っていた。そして再びチャレンジ。なんとかすりぬけて噴水にダイブ。そこまでして飛び込む意味あるのかはわからんけど、噴水には多くの学生がいて一体感があった。結構楽しかったし、良い思い出です。 そんなこともあったけど、このサークルは2年生が主体となってやっており、2年生がいろいろな役職についていた。僕は遅れて入ったため仕事がなかった。それを快く思っていない人もいて、再び役職を決めなおすかどうかで結構ややこしくなってしまった。なんか、そこまでしてこのサークルにいても仕方ないと思ったので、主将に行って辞めることにした。自分で走る方が気楽な感じがした。もっと入りやすいサークルというか走友会をいつか作ろうと決意しました。 夏休みには小学校の同窓会があった。小学校の卒業式以来あっていなかった人も多くいたので本当に懐かしかった。もう、結婚している人もいてびっくりした。女の子はやっぱり変わっていたけど、男の方は見てすぐにわかるくらいあまり変わっていなかった。なんでなんやろ・・・。先生も来ていた。高校を卒業するまで担任をしてもらった先生の中で一番好きな先生だ。何事にも熱く、真剣で僕は今でも一番の恩師だと思っている。その先生もさすがに老けていた。でも、相変わらずだったので安心した。また、皆に会いたい。元気にしてるんかな・・・ そして、自動車の運転免許を取るために山形に合宿に参加した。KAFUNO君と一緒に行った。初日からいきなり運転させられたけど、全然出来なかった。どれだけ脱輪したことか。自信をなくしました。なぜか男はマニュアルやろみたいなことを友達が言っていたので無理にマニュアルにしたけど、かなり後悔した。慣れるまでかなりかかった。途中でオートマに変更しようか本気で迷った。それでも、KAFUNO君と励まし合いながらなんとか乗り切る。最後の実技に合格したときは本当に嬉しかった。かなりおまけしてもらったんやろうけど。山形はのんびりした感じで本当に良かった。また、遊びに行きたい。 |
| 2002 | 22歳 | 大学3年生になり、校舎が変わる。駅から遠くなっただけで、余計大変になってしまった。この頃から学科の専門的な実験が始まった。面白かったのは、グループによる実験だった。内容は電器コンセントに差し込むプラグを12個作る時間をどうやれば短縮できるかグループに分かれて競い合うというものだ。ジグ(人間の作業をしやすくするための道具)も自分達で作って、それを使いプラグを組み立てる時間を短縮するのである。まず、どういったジグを作ればよいかグループで話し合い、ジグを作る。そして、代表者一人が実際にそのジグを使って、プラグを12個作るというものだ。代表者は僕でした。どうしても1番になりたかったからジグをうちに持ち帰り、プラグを作る時間を短縮するために練習もしました。その結果、練習の時はめっちゃすごい記録が出せた。勿論優勝できるようなタイム。そして、本番。カメラで僕の手元を撮影され、皆も見てるのでめっちゃ緊張して手が震えた。思うように出来ず、練習の時より10秒以上遅かった。結果、2位。悔しかったけど、ジグが良かったということでジグ賞はもらえた。皆で協力して実験することは楽しいとその時思った。 11月になると自分の所属する研究室を決めることになる。僕は実験の楽しさを覚えていたので、実験ができる研究室を選ぶことにした。それが今所属している研究室。車に関する研究を主にやってる研究室。カーナビにどういったシステムが取り入れられれば人間の運転時の負担や事故を減らすことができるかとか、排気ガスを減らすにはどうすれば良いかとかについて研究している。その他にも、画像処理や、人間の脳波、病院から生体試料をいただいてそのデータ解析なども行っている。以上、研究室紹介でした。 そういうわけで、この研究室に入りたいと思った。3年のときは研究室が決定しただけで特に研究が始まるというわけでもなかった。 そして、12月。友人の一言をきっかけに急遽応募したホノルルマラソンに出場する。途中で足をつったけど、なんとか完走でき、感動する。一緒に参加してくれたMICKさんと感動を分かち合う。また、いつか参加できればと思う。 年末には高校の頃の同窓会があった。その年の幹事は僕とKちゃんだった。二人で協力して無事に終わることが出来た。その時、担任のY三郎先生も呼んだんやけど、フルマラソンの話をしたら「絶対3時間切って走るのは無理や!」と決め付けられたので正直むかついた。次の大会で絶対3時間切ってやると心に決める。2次会では先生のいきつけのスナックに行く。ここのおばちゃんは面白い人やった。幹事だったのでスナックの手伝いをする。カウンターに立てて面白かった。割としたい放題にしてしまったので、会計の時その額に唖然とした。先生自身もびっくりしていたようで、結果的に先生に多くお金を使わすことになってしまった。すいませんm(__)m そして、2月の口熊野マラソンで3時間を切る!「見たか!Y三郎!」と心の中で思ってしまった。でも、本当に3時間を切れたことは嬉しかった。 春休みにはスペインとポルトガルに旅行に行ったんやけど、そこで衝撃的な出来事があった。同じツアーで参加していた女の子のグループと話をすると小学校の同級生のI田君、I本さんと同じ大学の人達で、二人のことを良く知っているというのだ。ほんまに世間って狭いんやなーと思った。それがきっかけで、I田君、I本さん、Hさんの三人にその後再会する。やっぱり皆大人になってた。ここでも、やっぱり女の子の方が変わるんやと思ってしまう。 そして、3年生を無事に終える。 |
| 2003 | 23歳 | ついに大学4年生。研究室での輪講も始まる。研究室内でも研究テーマによって班にわかれる。僕の班はHMI班(ヒューマンマシンインターフェース:人間と機械の境界(どうやれば人間が機械を使うときにミスが減るか等)について研究する)に希望した。毎週輪講があるんやけど、英語の本を4年生の5人で分担して読むという内容だった。その本の内容が人の視覚に関するものやったんやけど、専門的な内容で単語もわけわからんのが多くて、訳するだけでもほんま大変やった。最初は英文を全部翻訳サイトに打ち込んで機械に翻訳してもらってたけど、わけわからん訳になるだけやったので、結局自分で訳をするはめに・・・。訳するだけだったらだめで、パワーポイントを作って、レジュメも作って。かなり大変やった。1時間半発表するんやけど、僕は自分の担当した部分がほんま意味わからんくて、3週間連続発表の時があった。あれはきつかった。 5月くらいに大学院に進学できることが決定する。面接もなかったのでなんかこれで良いのかと少し疑問に思う。ほとんどなんの知識もないまま大学院に行けるなんて・・・。 夏合宿もあった。この合宿もかなり大変で、内容は輪講の様に英語を訳してパワーポイント、レジュメを作って発表。担当するのが一人50ページくらい。また、わけわからん文章やったから訳すだけでもかなり時間かかった。でも、先輩と一緒にできたおかげで、パワーポイントの作り方とかかなり詳しくなった。(つもり)でも、確実にいろいろな作業はできるようになった。合宿は大変やったけど、皆でバスケしたりバレーしたり楽しかった。このバレーで両腕、内出血。バスケで右手親指突き指。ほとんど寝てないし、ぼろぼろになって帰ってきました。 9月には研究室の先生のうちにバーベキューに呼ばれた。めっちゃ庭広い!!んで、めっちゃいっぱい具材あった!全部先生のおごり。あんな贅沢なバーベキューは他にはないと思う。この研究室に入ってよかったと思えた瞬間。 そして、そろそろ卒論について動き出す。 はじめて自分で実験計画を立て、実際に実験をしデータを解析する。かなり大変だったけど、というか途中で投げ出したくもなったけど、(嫌なことが重なりすぎたから)やりきったときの達成感は大きかったし、自分のためにもなったと思う。 パナソニックの方に協力してもらい、何度か会社にも行った。メールでもやりとりしたが、僕のメールが悪かったのか、パナソニックの方が少し機嫌をそこねられた。必死で謝る。微妙に気まずくなった。まあ、最後はなんとかなったけど。会社で働くのって大変なんやろうなーって思った。 11月には学園祭に行った。モーオタ(モーニング娘。のオタク達。自分達でそう呼んでいた)のコンサートがあった。実際モーニング娘。などのアイドルが来てるわけでもないのに、曲を流して自分達で踊って盛り上がっていた。それがめっちゃ面白かった。あの一体感はすごかった。周りからキモイ、キモイと言われても全然気にせず、ひたすらダンスで汗を流す。自分の道をつらぬくことの大切さを学びました。 12月には実験の手伝いをおじいちゃん、おばあちゃんの知り合いにやってもらうことになっていたので、和歌山に帰った。安い夜行バスで帰ったため、ほとんど寝れず。だって普通の観光バスやったから。あれは2度とのりたくないかも・・・。 正月にはおじいちゃん、おばあちゃんの金婚式のお祝いがあった。50年もずっと仲良くいれるなんて本当にすごいと思った。一緒に旅行に行ったりもしてる。僕のこうなりたいという夫婦やと思う。たぶん・・・。 いつまでも仲良く元気で暮らしてください。 そして、卒論を書き上げる。一回目は書き方が全然駄目でほとんど直さなければならなかった。それでもなんとか仕上げる。 ハワイに旅行に行く。ホノルルマラソンで一度行ったことがあったけど、何度行っても楽しい。今回はスキューバダイビングもやってみる。あれ、ほんま怖かった。息の仕方がわからなくなり、ちょっとパニック。溺れそうになった。それに深く潜るためには、耳抜きをしなければならず、これがなかなかできなくて、めっちゃ耳が痛かった。でも、インストラクターの人が優しくてなんとか12mくらいまでもぐり、泳いで見る。熱帯魚が多くてきれいだった。かなり感動した。でも、周りに人がいたから良かったもののひとりだと絶対怖いと思った。あまりにも広くてなんかほんまに恐竜とかいそうな感じがしたから。ハナウマ湾もきれいだった。ここは本当に浅瀬にまで熱帯魚がきていてすぐ近くに見れるので子どもに戻ったときのように熱帯魚を追いかけていた。やっぱりハワイは良い。日本人が行きたくなる理由がわかる。 そして、卒業。大学4年間はほんまいろいろな経験ができたので成長できたと思う。それにしても4年間はあっという間だったような気がする。時間を無駄にしたこともあったかもしれないけど、それら全てが僕を成長させてくれたんかもしれん。そう考えたら、というかそう考えなかったとしても自分にとって無駄なことなんて1つもないのかもしれない。そんな無駄やと思えるほど1日1日は意味のないものではないと思った。 |
| 2004 | 24歳 | そして大学院生になりました。大学院は入試もなく入ったのであんまり感慨深くはなかった。大学の延長って感じやった。 最初は大学の頃にたHMI班に所属してた。6月に学会発表があったから、それでやっと卒論が終わりって感じ。初めての学会発表ということもあり、事前にかなり練習した。助教授の前でパワーポイントを使っての発表練習を何度もやった。 そして、発表当日。さすがに緊張してた。発表の部屋に入るといかにも偉い人です、みたいなオーラだしまくりの人たちが何人もいた。「やばい、突っ込まれた質問されたらどうしよう・・・」 そして、発表。「慶應技術大学大学院の・・・」いきなりかんでるやん!「技術って!」一番かんだらあかんところでかんでしまいました。まあ、未だに塾の生徒で技術って思ってる人もいるくらいやからねー。その時は「技術じゃなくて、義塾やから!」って強く否定してるんやけど、そういってる本人がかんでたら世話ないわ。 途中、何度もかみながらも15分の発表をなんとか終えました。 そして、質問タイム。いきなりすごそうな人が手をあげて質問。偉いおっちゃん:「高齢者ってどういう特性があるか知ってる?」僕:「個人特性に大きな差があるので、同じ年齢であっても、操作性に違いがでることが多いと思います。」偉いおっちゃん:「いや、私が聞いているのはそうじゃなくて、どうのこうの・・・」もう何を言っていたのか覚えていません(^_^;)それくらいパニクッてました。僕:「・・・・・・・・・・・」偉いおっちゃん:「じゃあ、私がお答えしましょう。」で、どうのこうの・・・。これも何言ってたか覚えていません。ていうか、知ってるんかい!僕を試してたんやね(^_^;)あっさり撃沈してしまいました。質問タイムはそのおっちゃんがほとんど解説をしてくれたので、あっさり終わってました。これじゃ、どっちが発表者かわからん。 まあ、とにかく終わってほっとしている僕のところに、またまた違うおっちゃんが!おっちゃんB:「君のこのSASを使っての解析、このやり方だとちょっと危険かもしれないよ。」僕:「はあ・・・。ちょっとどういうことかわからないのですが・・・」おっちゃんB:「つまり、どうのこうの・・・。」これも難しすぎて覚えてません。その後、助教授に噛み砕いて説明してもらってようやく理解しました。 何はともあれ、これで僕の卒論は完全に色んな意味で終了しました。 その後、研究テーマを変えることにしていたので、僕は生体班に移ることにした。こっちの班は病院からデータを頂いてそれを解析するっていうのが中心の班。HMI班みたいに実験をすることがない分、自分の好きな時間に好きなだけできるのが結構魅力だった。 それでも、病院の先生が忙しくて本格的にデータ解析を始めたのは、1月くらいからやったけどねー(^_^;)パソコンの準備とかにも結構時間かかったし・・・ そうこうしているうちに夏休みになった。夏休みは香港に行ってきた。香港のことを詳しく知りたい方はコチラをどうぞ。 そして、一番大きかった出来事がホームページを作り始めたこと。はじめから走ることを中心に書いていこうとは思っていたけど、ホームページビルダーの使い方もほとんどわからんかったから、リンクを一つ貼るだけでもかなり苦労した。メールはこちらとか書いておきながらクリックすると、僕のホノルルマラソンのゴールシーンが出てきたりしてた。すぐにやめようかとも思ったけど、一度やり始めたことを途中で投げ出すのは嫌やったから、ちょっとずつ嫌にならん程度に続けようと思った。まあ、こんなに一生懸命作っても誰が喜ぶかって、それはやっぱり一番喜ぶのは自分だったりするんやけどね(^_^;)今思えば、最初につくったホームページを残しておけばよかったと思うわー。どんな感じやったんやろ・・・。ホームページを作り出してからはほんま何でもないことを色々書き留めるようになったから、自己紹介のページでわざわざ書く新しいことっていうのがあんまりない。なので、今苦労して書いてます(~_~;) 最初は色んな人のページを訪問して相互リンクしてもらって。色んなサイトに登録して。よくやったわー。でも、今では良い思い出です。大学入ってから、自分のために一番有意義に時間を使った夏休みだったかもしれん。夏休みはそれと並行して、就職活動の準備も始めていた。リ○ナビや毎○就活ナビに登録して、自己分析なんかもはじめた。その時にワードを使って自分の性格について書いたんやけど、それもまたいつかなんかの形で紹介できればって思っています。そんなもん載せてどうすんねんって。それはやっぱり自己満足です。せっかくホームページを作ったからなんでも形に残しておきたいんです。自分が年とったときに見たいから。 学校が始まると、就職活動も少しずつ本格的に開始した。一番最初に受けたのは日本○レビ(わざわざ隠す必要あるんか。バレバレやけど(~_~;))5分間の面接やったんやけど、初めてやったから緊張したー。面接官:「会社に入って何やりたい?」僕:「箱根駅伝に出場できるチームをテレビ局で作るっていうのをドキュメントでやりたいです。箱根駅伝OBの選手を集めて、監督には小出さんを呼び、半年から1年かけて箱根駅伝に出場する大学と肩を並べるようなチームを作りたいです。その練習過程や、メンバー間の争いなんかを放送したら面白いと思います。」面接官:「・・・・・・。それでは大学時代に力を入れたことを教えてください。」撃沈でした。 良い経験になりました。 11月、12月は外資を中心に受けました。やっぱ外資受けに来てる人はそれだけですごい人に思えるわー。皆英語しゃべれそう・・・。ていうか、外国の人もおるし!! 12月下旬に、祖父が亡くなり、実家に帰ることになりました。実家は未だにダイヤル回線やからインターネットが遅すぎです。だから就職活動がほとんどできないと思ったので、面接の達人って本を買いました。そこには面接でよく聞かれる質問っていうのがいくつも書いてあったので、それに対する回答を自分なりに作ってた。 その中の一つを紹介します。「あなた自身を色にたとえると何色ですか?」 回答:「銀色です。銀色はメダルの色だと2番目の色です。僕は目標を達成しても常により高い目標を持つようにしています。常に金を目指す挑戦者の気持ちを忘れない私は銀色だと思います。自分の色が金になるのは死ぬ直前、自分の人生を振り返った時だと思います。」これ言いたかったわー。全くどこでも聞かれんかったけどね(^_^;) で、再び東京に帰ってきて、就活を再開。この頃、研究も始めないと駄目だったので、並行して頑張らないといけなかった。後、ホームページの更新もなるべく滞らないように注意した。さらに毎日走るのも欠かさなかった。これだけ色々こなしてたのは、就活のためです(笑)僕は一度にたくさんのことを手を抜かずにこなすことができますってアピールしたかったから。まあ、どれも中途半端になってたかもしれんけどねー。 2月からは一応、春休みってことやったんやけど、あんまりそんな感じはせーへんかった。もう就活ばっかりやったから。とりあえず、会社説明会や、選考にばっかり行っていた。ほとんど毎日どっかに行ってたから、スーツを着ることが多く、普段着なんて全く着なかった。久々に普段着着るとかなり違和感があった。働き出したらもうほとんどスーツばっかになるから服も買いたいって思わんようになるんかなー。今でもあんまり服欲しいとか思わんようになってきてるしなー。 就活やってて、失敗したこともいっぱいあるけど、面接で失敗したことを二つくらい挙げます。 その一 面接官:「日本全国でマラソンしてる人って何人くらいいると思う?」僕:「70万人くらいだと思います。」面接官:「どうやってその数字出したの?」僕:「10代の人数はこのくらいでスポーツやってる割合がこのくらいで、その中でマラソンやってる割合はこのくらいで・・・」そうやって計算しながら説明した。そして、その答えは・・・僕:「っテ言う風に計算をしていくと、日本全国でマラソンをしている人の数はおよそ50万にくらいになります。」数減ってるやん!すかさず面接官が「数減ってるけど・・・」僕:「最初の数は僕の期待する人数でした。」沈黙・・・。 面接官:「ありがとうございました。それではこれで面接終了です。」撃沈。 その二 リクルーター:「日本全国にJRっていくつあるか知ってる?」僕:「うーん、あんまりわからないですねー。4つくらいでしょうか(少ないなー、でもこれくらいしかあげれそうにないわ)」リクルーター:「じゃあ、知っている4つを挙げてみて。」僕:「JR東日本、JR東海、JR西日本・・・・・・・。以上です。」3つしか挙げれんやん!誤算やったわー。撃沈。 面接って、やっぱり何聞かれるかわからんし、その場で答える力っていうのが結局仕事をする上でも大事なんやなーって実感した。仕事で取引先の人と話する時にこういうこと聞いてくるはずっていうのがある程度はわかっても予想外のこと聞かれたりすることってしょっちゅうあるはずやしねー。ほんまいい勉強になりました。後でJR調べとこう・・・。 こんな感じで、この一年は今までやったことのないことに色々と挑戦した年だった。特にホームページを作ったこと、サークルを作ったことは僕の中では本当に大きな出来事やった。 改めてこれからもホームページを頑張って更新していこうと思った。あー、よくやったわーっていう自己満足が基本にはあるけど、僕の作ったホームページを見てくれた方がちょっとでも共感してくれたり、楽しんでくれたり、さらにはサークルに入ったりしてくれたらほんま嬉しいです。結局、それも自己満足なんやけどね(^_^;) |
| 2005 | 25歳 | 大学院2年生。ついに学生生活も6年目をむかえることとなりました。小学校で言うと最高学年の6年生です。下級生の模範とならなければならない、最高学年。そんなにも長い間、大学にいたんやねー。小学校の6年間は、身長、体重も変化していくから、あー成長してるって実感できたけど、大学に入ってからの6年間は身長は変わらんし(いや、0.2m伸びた!嬉しい!)、体重も変わらんし(いや、これも2kg増えた!これは嬉しくない!)成長してるのか、なんなのかよくわからんかった。成長していたとしても、目に見えないものやから、それが充分な成長なのか、まだまだ全然足りていないのかすら、わからんかった。まあ、きっとまだまだ全然足りてないやろうから頑張らんとあかんのやろうねー(^_^;) 自分が25歳の誕生日を迎えた次の日、4月から働く会社から内定をもらった。なので、内定通知の日は一生忘れることはないと思います。とにかく就活はしんどかったです。24歳のとこにも書いてあるけど、今やから笑えるけど、当時はへこんだりすることも多かったです。なんで、落とされなあかんねん!ていうか、面接官の気分次第やん!僕が面接官やったら、絶対僕は採るわー(当たり前か・・・)とか、八つ当たりしてました。 就活で勉強になったことは、履歴書なんかにホームページのURLを掲載するべきではないとないということです。 ある企業では、事前に僕のホームページを見ていたらしく、特に自己紹介を中心に読んで下さっていたようです。まあ、履歴書よりも詳しく、しかも本音で書いているところも多いから、僕という人間がわかりやすかったようです。 面接官A:「平野君は、小さい頃から結構すぐ投げ出しがちだったみたいだけど、そんなんで会社入って大丈夫?」思いっきり痛いところをつかれました。 僕:「あれは、ああやって、辞めました、辞めましたって続けざまに書いたら読んでる方が面白いかなーと思って書いたんですよ」 面接官A:「うーん、イマイチ面白さが伝わってこなかったけど・・・。ああいうのを面接官が見たら、きっと誰だって、あー、こいつは会社入っても嫌なことがあったらすぐ辞めてしまうなーって印象もたれるよ」 僕:「いや、確かにそうでしょうけど、僕だって面接官に読ませるために書いたわけじゃないんですよ。」 面接官A:「じゃあ、履歴書にURLは掲載しないほうが良かったねー」 こんな感じでした。イマイチ面白さが伝わっていないということもショックでした。 ホームページ持っている人はURLを履歴書に掲載するのはやめましょう(笑) 就活もひと段落したので、いよいよ研究に本腰を入れる。といきたかったとこやけど、解析手法が定まらず、かなり苦労する。月1回、病院の先生を招いて研究成果報告をしていたんやけど、毎回「そこは違うんじゃないか。」と必ず言われていた。その度、徹夜してプログラムの作り変えや、新しいプログラムを作ってました(^_^;)紆余曲折を経て、最終的な解析手法が定まったのは2006年1月。修論提出が2月やから、この頃は相当焦ってました。自暴自棄になってました。と言っても、睡眠時間を削るということは決してしませんでした(笑) ふて寝ばっかりしてました。 研究を通して、自分の良い点、悪い点が見えてきた。修士の2年間は、大学4年間よりも色々チャレンジしたし、めっちゃ充実していた。大学4年間がスカスカなのでは?という説もあったりするけど・・・ とにかく、大学院まで通わせてくれた両親に感謝しています。「人を感動させる人になりなさい。」父のこの言葉を胸に、これからも頑張ります。 25歳で頑張ったこととを他に挙げるなら、やっぱりサークルやなー。ランニング雑誌にも2回載ったし(自慢(笑))メンバーも増え続けてる。勿論、自分ひとりでここまでは出来んかった。支えてくれるサークルのメンバーがいたからやってこれた。ほんまに良い仲間にめぐり合えたと思う。色んな年代の人や色んな考え方の人がいるけど、ほんま居心地がいい。きっと、走るという共通のアイテムを持っているからやろねー。自分の狭い価値観を少しでも拡げることができたらと、いつも思っています。 サークルでも色んな経験ができた。7月の富士登山競走。これを走るきっかけを与えてくださったこたおさんには感謝しています。ほんまめっちゃしんどかった。詳しくはコチラよりどうぞm(__)mもう2度と走りたくないけど、あの過酷なレースを完走した達成感は大きかった。(そういえば、こんな文章、中学校の答辞で聞いたことあるなー。) それと、11月のEKIDENカーニバルでは、サークルから5チームが参加。めっちゃ人数集まったなーと実感した瞬間でした。このEKIDENカーニバルでは男女混成の部で見事優勝。この大会を通して、関東RCを倒すという目標もできた。そんな遠くない将来、必ずできるはず! 自分が4月生まれというおかげで、4月からまた新たなスタートが切れそうです。第2章みたいな感じでちょっとかっこいいやん! こんなことを書いておいて、来年の今頃にはしんどいから会社を辞めました、とか書いてないといいんやけど(^_^;) 面接官A:「平野君は長続きしないねー。」ってどっかから聞えてきそう(>_<) |
| 2006 | 26歳 | 4月からは新社会人としてのスタートを切った。 初めての一人暮らしやったから、結構不安やった。 しかも、借りたアパートが2ヶ月家賃無料、礼金無しっていう お得な物件やったから、何かあるんじゃないかって余計な心配もしてました。 正直、治安がいいところではなかったなー。 7月くらいにめっちゃ近くで強盗殺人事件が起きたりしたから・・・ で、ついでやから最初にすんでいたアパートの話をもう少し。 ここは湿気がひどくて、ありとあらゆるものにカビが生えた。 カバン、靴、ミニコンポ。 挙句の果てにはプレステのコントローラーのグリグリするところにまで カビが生えてました。あれはびっくりした。 環境が変わってしまったことで、4月中旬には体調を崩してしまったけど、 会社の研修期間ということもあり、無理して毎日会社には行った。 研修期間には、自己紹介をみんなの前でやった。 僕はサークルやってることとキンニクマンの歌が得意であると話したかなー。 サークルと同じようにヒラケンと呼んでもらうようにもしました。 そんな研修は結構眠かったりもしました。 居眠りしてて怒られて、みんなの前で「気が緩んでました。もうしません。」 と約束したにもかかわらず、次の日また居眠りして・・・ 担当の先輩社員には「非常にがっかりしました。」とあきれられてしまった。 こんなんでやっていけるのか正直不安やったけど、研修が終わって本格的に 業務につくと居眠りなんてしている余裕はなかった。 全てが新しいことばっかりで、覚えることが多く、最初はかなり苦労しました。 って、今も結構苦労してるけど・・・ 何度か失敗もしたし、怒られもしました。 でも、最初の頃は結構頑張って何でもやってやろうと言う気持ちが強かったから それほど苦痛ではなかった。 今、これを書きながら、その時の気持ちを思い出さんとあかんなーって思っています。 初心忘れたらあかんね。 仕事の内容はあんまり書いたらあかんやろうから、サークルでの出来事を。 サークルのメンバーがついに200名を突破しました。 うれしかったです。確か4月の研修の自己紹介の時には140名メンバーがいるって話したはず やから、すごく増えたなーと思います。 人数を増やすことも僕の目的の一つなので、順調に増えているのは良いことだと思っています。 8月にはサークル初の合宿も行うことができました。 初めての合宿だったけど、参加してくれた皆さんの協力もあって成功したと思います。 今年もやれるといいなー。 11月の駅伝カーニバルでは過去最高の10チームでの参加となりました。 成績もすばらしい結果を残すことができました。 大きくて強いサークル。全国でもなかなかないサークルだと自負しています! って、自分のこと書くつもりがサークルのことを書いてしまってるなー。 というのも、サークルは僕にとっては大きな支えであり、自信でもあるからです。 嫌なことがあっても、サークルのみんなに会えば癒されるし、また頑張ろうと思えます。 サークルと共に成長してきたと思います。 サークルが大きくなるにつれ、自分も成長しているのだと自分に言い聞かせています。 それが自信を失いそうになった時、自分に活力を与えてくれるから。 毎年、これを書くとき、去年の自分は何を考えてたんかなーって読み返してみるけど、 今はちょっと去年より元気なくなってるなーって自分でもわかります。 大きな壁にぶち当たってるからねー・・・ 逃げ出したいって思うこともあるし、ちょっと逃げたりもしてるけど(笑) やけど、今この状況をありのままに受け入れんとだめなんやね。 そこから始まるんやね。 わかってはいるんやけど、なかなか僕自身の心がそれをさせてくれん。 あれやこれやと悩んで、環境のせいにしたり、自分自身のせいにしたり・・・ もっと心を落ち着けんとあかんね。もう27歳になるんやしね。 とにかく、ありのままに受け入れる。これができるようになろうと思います。 そうしたら、また成長できるはずやから。 来年は、もっと大きくなった自分がこれを「そんなときもあったなー」と 笑って読み返せるようにしたい。 |